山梨県:美術家 / 開発好明 (12.6発)
東日本大震災被災地域のためにアートによる心の繋がりを運ぶ
デイリリー・アート・サーカス 2011 ( 花言葉 再生 )
人を繋ぐ、心を繋ぐ、町を繋ぐ30日間
私は3月11日に山梨県の自宅で今回の地震を体験し、大きな揺れのため思わず 家の外にでました。その後、部屋に入りテレビを点けると、東北の沿岸の映像が流れ、徐々に津波の勢いが増して行く映像を目にしました。その翌日から個人的なネットワークで何か出来ないかと、ネットを介してのチャリティーを友人達に呼びかけ、日本、ドイツ、オランダでホームページでのチャリティー販売が始まりました。しばらくして、人として何かお手伝いしたいと思い、ボランティアをするために石巻に向かいました。
この経験から「まだ足りない。他の方法でも、必要とされるなら何かしたい」との思いが続き、ニュースの映像で見る子供達の元気さと、家を失い、自分で集めたおもちゃや本・映画など様々な文化が一瞬にして失われてしまったんだと、家の片付けをしながら自分に出来る事はアート(文化)を届ける事ではないかと思い立ちました。
そこでアート作品をトラックに詰め込み、知り合いの作家に呼びかけ、準備に入りました。当然、現地の状況がこのような活動を受け入れるような環境になってからでも良いと思い、夏に開催する事にしました。もちろん、まだニーズの無い場所は秋以降で良いし来年でも構いません。展覧会のタイトルは、デイリリー・アート・サーカス2011です。デイリリーは花言葉で再生を意味しています。8月8日の兵庫から9月6日の青森まで30日間、30箇所での開催となりました。この展覧会の特徴として、ただ被災地への訪問では無く、日本全体での復興と心遣いを盛り上げ、感じて頂きたいとの思いから、西日本と関東の13カ所で義援金を集めながら移動し、東日本では小学校、公園、仮設住宅、美術館など様々な場所を会場に17カ所で開催しました。彫刻の高橋士郎、抽象画の野田裕示、吉澤美香、ワークショップのタムラサトル、磯崎道佳、木村崇人と私の7名の作家が参加しました。
9月の訪問先の岩手では、津波で一階部分を流されてしまったご家族が6月から楽しみにしていて下さり、当日幼稚園を休んでまで見に来てくれました。僕たちの活動が必要とされていると感じた一瞬でもありました。
また10月にも新たに宮城、岩手、福島の計5カ所を新たに訪問させて頂きました。多くの皆さんがこの活動を楽しみにしていて下さり、また必要とされている事を嬉しく思います。
来年の夏にもまた行うため準備したいと思っていますが、まだまだ訪問したい場所が多くあります。そこで来年までの間を埋めるコンパクトな展示プラン『デイリリー玉手箱』の準備をしています。これは教室に作家の作品を1週間程度展示してゆっくり鑑賞して頂く作品です。大きな作品では無いですが、その代り、オリジナル作品をゆっくりと鑑賞できるメリットがあります。このような活動を通じて今後も地道にご要望に合わせてお届けできたらと考えています。
岩手県大船渡市:大船渡市企画政策部市民文化会館(大船渡市民文化会館リアスホール)企画運営員 / 中村仁彦 (11.22発)
当市の復旧及び復興に向けて、全国各地から、また多数の国から支援頂いています事に大変感謝させて頂くと共に、復興に向けてより一層努力して行きたいと思っております。
当館はやや高台にある為、津波を免れ、地震による被害も比較的軽い程度で済みましたが、地震発生直後から避難所となり、館内のホワイエ・マルチスペースを中心に、一時470名前後の避難者が生活していました。8月18日に最後の避難者が仮設住宅へ移り、避難所としての機能を終了。9月から大ホールを除く施設の利用貸出を再開、修繕がやや遅れた大ホールは、合同慰霊祭などの市事業に限定して利用を許可。10月からは全ての施設の利用貸出を再開し、通常のホール運営に戻る事ができています。
避難所になっていた時、炊出しや慰問コンサートから医療チームの滞在など、様々な支援を頂きましたが、当館に於ける慰問イベント・コンサートは、震災発生から約二週間が過ぎた3月27日、県内有志による弦楽四重奏ミニコンサートを実施したのが最初でした。避難所はまだ落ち着かない状況であり、そのコンサートの打診をいただいた時には、果たして避難生活されている人達が受入れて下さるのかどうか不安があり、迷いましたが、避難所エリアからやや離れている入口エントランスで実施するようにし、弦楽のようなあまり大きな音が出ない音楽であれば、避難者からクレームも少ないだろうと思い、実施しました。コンサートはまずまずの集客でしたが、コンサート終了後、楽器に興味を持った子供たちが演奏家を掴んで離さず、そのまま弦楽器の弾き方講習会になり、子供たちはとても喜んでいました。長い避難生活になるかもしれない状況で、子供たちが受けるストレスが最も気になっていたので、子供たちに喜んでもらえて本当に良かったと思います。また、コンサートを聴いた大人たちも、自然と笑顔が出て、リラックスしてもらえたようでした。被災規模が余りにも大きい事が一因と推測されますが、被災された方々は、いっときでも心の安らぎや現実逃避を求めていたのだと感じ、また、改めて音楽の持つ癒しの力は偉大だと、私自身、再認識しました。
それ以降、さまざまなジャンルのコンサート・ライブの慰問を頂きましたが、市内全ての避難所が閉鎖し、被災された人達も自立した生活を求められる現状で、文化芸術も含めて支援のあり方を考え直さなければならない段階にさしかかっていると思います。避難所が数多くあり、復旧が第一優先だった時期では、物的支援・短期的支援が最も必要とされる支援でしたが、復興に向けて動き出しつつある現在、「その支援が果たして将来どの様な影響を及ぼすのか?」を検討する必要があると思われます。
支援を頂いている立場ですので、おこがましい事は申し上げられませんが、文化芸術面に限ってみると、有名アーティストやタレントのエンターテイメント的な要素が多いものを含めて、復興支援・被災地支援と名のつく公演のほとんどが、無料となっています。ホール再開以降、無料で行った公演は、通常ではあり得ない程の市民のレスポンス・集客があります。当館の共催事業・自主事業として受入れさせて頂いている公演も数多くありますが、このまま無料公演が続いてしまうと、無料でないと集客が難しい地域になってしまいそうです。もともと経済基盤が小さい当市において、これは大変厳しい事で、元からある文化芸術団体の活動などにも影響が出そうです。
11月11日・12日、ヨーロッパを中心に活躍されている現代アーティスト、ロッカクアヤコさんと一緒に一枚の絵を作るワークショップが開催され、約3×10メートルの大きなキャンバスに一つの絵が完成しました。展示方法・場所・日程などまだ未定ですが、「大船渡の子供たちは元気だぞ!」と発信出来ると思います。また、来年2月には、地域創造さまからご支援を頂きながら「おんかつ」(公共ホール音楽活性化市町村連携モデル事業)を実施します。平成20年11月のオープン以降、これまでも「1,000円でクラシックコンサート」を年数回実施して、クラシック鑑賞人口の普及に努めてきましたが、オープン当初から構想にあったワークショップを併催する育成事業に、震災の影響で断念する事も無く、本腰を入れて取り組みはじめます。アーティストの新崎誠実さんのアイデアで、湯山昭作曲「お菓子の世界」の各小品を題材としたワークショップで出来た作品(メッセージ)を紡ぐ“お菓子の世界プロジェクト”のゴールとして、当館でコンサートを実施する事になっています。
これからの十数年間、“復興”の二文字から逃れられないと思いますが、色々なモノを失った被災地域に於いて、音楽や美術といった文化芸術を通し、未来に向かって子供たちに“何か”を残せる事業に関わる事に、大変嬉しさを感じております。子供たちが将来大きくなったとき、震災の記憶が、辛いだけのものにならない事を祈りたいと思います。
東京都:ワークショップコーディネーター・Arts Vision Network311研修担当 / 吉野さつき (11.6発)
9月29日、仙台で文化芸術による東北の復興支援活動を行うArts Revival Connection Tohoku (ARC>T)からの要請で、アーティスト向けの研修会を行ってきました。ARC>Tには、学校や地域の施設などさまざまな場所に出かけていって、ワークショップやアート活動などを行う「出前部」があります。今回は、その出前部リーダーで、ダンサーの千田みかささんよりお声がけいただきました。
仙台では、この10月より、ARC>Tや仙台市等の共同の実行委員会による「仙台市震災復興のための芸術家派遣事業」(文化庁平成23年度次代を担う子どもの文化体験事業〜東日本大震災復興支援対応〜採択事業)がスタートしています。今回の研修会は、この事業で学校や児童館などに派遣されるアーティストを対象に行われました。
ワークショップなど子どもたちとの活動をするために、事前に主催者である学校や児童館などと何をどう打合せをしたり、どんなことを確認しておいたほうがいいかや、現場でどんなことに気をつけたらいいか、震災のトラウマをどう考えたらいいのか、その他、子どもたちとの現場に関わるうえで、比較的基本的な事柄について話して欲しいというリクエストでした。参加者は13名。お仕事の都合などで、どうしても都合のつかなかったメンバーには、記録ビデオを撮ってみてもらうことになっていました。
そんなに多い人数ではなかったので、まずは自己紹介を兼ねて、最近の子どもたちとの活動経験や、これからの現場や今関わっている現場で困っていること、不安に思うこと、特に知りたいと思うことなどをそれぞれに話していただきました。学校に入る場合や授業の枠内であることの制限や、活動環境の問題、学年をまたいだ時の対応、一度に大人数になってしまった時のこと、特別支援の児童のこと、震災の心理的影響など、さまざまなことが話題に上りました。
さらに、福島からの転校生が増えていて、夏休み明けにクラスの構成メンバーが大幅に変わった学校が増えていること、よその
学校から転校してきた子どもたちはみな違う色の体操着を着ていて、その“違い”が可視化されているという状況、外での活動や学校の水道水を飲むことなどを、保護者が制限している子どもとそうでない子どもが同じクラスにいることなど、いろいろとリアルな現場の状況も聞かせていただきました。その後、子どもたちとのワークショップ現場の、事前、現場、事後、という時系列に沿って話をしながら、その前に出た質問や相談にもお答えして、最後は、それぞれの課題を共有し今後にむけてお互いに協力し合うための自由なディスカッションを行って終了しました。
震災後、Arts Vision Network311の活動で仙台に行くのは3度目でした。最初が一ヶ月後の4月、その次が6月。そして今回。参加した方々やARC>T事務局の方々と再会して、家や職場が沿岸部か内陸部か、身内や友人の喪失や仕事への影響の度合いなど、それぞれに状況は違っても、自らも被災したアーティストたちが、自分たちの住む地域を自分たちで復興していこうとする強い意志と使命感や義務感と、自分たちもまだ回復の途中にある中での不安や戸惑いを抱えながら、前に進もうとしていると感じました。
また、ARC>Tの関係者と話していて、こうした活動は、今は“復興”という名のもとにスタートしているわけですが、いつか、この“復興”という二文字がとれて、アートが子どもたちの生活や地域の人々の間に自然とあって人と人をつなぐ、そのような社会のモデルケースになるような、そんな少し先の未来への希望もそこに託されていることも感じました。これは、もはや東北だけの話ではなく、社会の中でのアートの役割を考えるうえで、とても普遍的な課題であり、アートを仕事とする私自身にとっても重要な事柄であると改めて確認することができました。支援する側、される側という関係ではなく、未来に向けてどう協働していくことができるか、これからも考え続けたいし、ともに仕事ができるようにしていきたいと思いました。
岩手県:ソーシャル・クリエイティブ・プラットフォーム わわプロジェクト 岩手エリアプロジェクトリーダー / 石田 朋子 (10.25発)
このたびの東日本大震災により、お亡くなりになられた方々のご冥福をお祈り申し上げますとともに、被災された皆様には心よりお見舞い申し上げます。また、被災地へ赴き支援してくださった県内外、海外からの皆さまに、また被災地を想い応援してくださった多くの皆さまに厚く御礼申し上げます。
さて、未曾有の大震災からはやいもので約7か月が経過しました。振り返ると、震災後から1週間は共に地域活動を行ってきた仲間達や、日頃から関係のあった方々と共に、安否情報の収集と発信(インターネット、紙媒体)、支援者間のマッチング、そして物資収集と被災地での配布等々、人命に関わることを最優先に緊急支援を行いました。
各避難所をまわる中で、一日も早い住環境整備の必要性を感じ、2週目以降は約4カ月間に渡り役場、県と連携しながら、民間賃貸住宅借り上げによる応急仮設住宅の手続き支援を行いました。また、それと同時に、炊き出しにはじまり、弁護士や美容師といった様々な支援希望団体と被災地とのマッチング等も行ってきました。
皆さまからのご支援は、震災後1カ月位まで生活物資や食に関する支援が主でしたが、その後徐々に応援団やコンサート、映画や絵本、手品、落語などの芸術文化に触れる機会の提供が増えてきました。特に夏休み期間は、被災地から離れ、観光地や娯楽施設等で、芸術や自然に触れる機会を提供するものが多くみられました。もちろん、泥掻きやがれき撤去等では継続的に多くの方々のご支援をいただいています。
現在の主流は、やはり被災者とのコミュニケーションを大事にした継続的な生活支援で、お茶っこサロン的なもの、またそこに集まる方々によるもの作り(布小物やベンチ等の木工品等)といった心のケアも考慮した活動です。さらに、学習支援やアート系ワークショップ、神楽等の郷土芸能支援等々、被災者自身が主体となる活動に移行しています。
私は文化芸術関係でも、医療福祉関係でもないので、その真偽は分からないのですが、“人のぬくもり”を感じられる“安心できるコミュニティの力”、手や身体を動かしながら“自分と向き合う時間”と、自分を表現出来る“クリエイティブな活動”は、どんな精神安定剤やトラウマ治療よりも優れているのではないかと、震災以降の様々な活動と、その活動に参加されている方々の表情を見ていて強く想います。
縁あって、先日沿岸の小学校で行われた演劇ワークショップを見学させていただきました。学校まで押し寄せる津波を体感した子どもたちが、地域で同じく被災された方々へのインタビューや写真等での記録を通して、被災後の現実と向き合い、そこから作り上げた脚本をみんなで演じるというものでした。当初は、いま震災に触れることは腫れものに触るようで、小学生には過酷な作業に思えたのですが、むしろ演劇により消化不良になっていた想いを発散するかのようで、積極的に取り組む姿はイキイキとしていて、彼らが作り上げた作品は“希望”に満ち溢れていました。子ども達が演劇を通して、自分自身、また仲間達と共に震災を消化しながら、大事なことを胸に刻み込んでいく姿を目の当たりにし、復興におけるアートの力(潜在能力)、役割を強く感じました。
震災から半年が経ち、復興は、沿岸部もですが被災県の内陸部、特に県庁所在地でもある盛岡の意識と意欲が、そのスピードとクオリティに大きく影響してくるのだと思い、危惧しています。
そこで最近は、自分のホームでもある盛岡での活動の重要性を強く感じ、復興、そして“持続可能な暮らし”の実現に向けて、半歩先の提案をしていけるよう、共鳴する方々と“ユーモアとクリエイティビティ”を大事にした新たな働きかけをスタートしました。まずは、これらをしっかり形にしていきたいです。
その他、東京をハブ拠点に、被災地で活動するメンバーも連携し、被災地をクリエイティブな側面からサポートしていく『わわプロジェクト』に参画しています。その活動のひとつで『わわ新聞』というコミュニティ新聞を作っています。被災地の人々がより快適に過ごせるような情報や、被災地で積極的な取組みをされている方々の紹介等を読みやすくデザインし、仮設住宅等へ配布しています。一方、全国の公共施設や美術関係施設でも、“現場の今”を伝えるべく配布していますので、ぜひ手にとっていただければと思います。
最後になりましたが、多くの皆さまのご支援により、震災以降のまちは素晴らしいスピードで『復旧』しました。しかし、『復興』への道のりは今までの震災の比にならない程遠く長いものになると痛感しています。
これを読まれている皆さまには、震災時の想いを胸に、被災地で新たな一歩を踏み出そうとしている方々を、今後も末永く支えていただければとこの場をお借りしてお願い申し上げます。
兵庫県神戸市:特定非営利法人DANCE BOX 代表 / 大谷燠 (10.11発)
『神戸から東北へ、東北から神戸へ』
16年前の阪神淡路大震災の時、私は須磨区の山際にある自宅で原稿を書き終え、そろそろ眠りにつこうとしている時でした。随分長い揺れに感じましたが、仏壇の線香立てが落ちた程度で、あれほどの大きな震災であったとはその瞬時は感じることなく眠りにつきました。午前10時頃になって友人が心配をして訪ねてきてくれて、初めてことの重大さに気づいたのでした。庭に出ると、眼下の新長田のあちらこちらで火の手があがっていて、家の方にも火の粉が飛んできていました。その後、避難所になっていた保育園をまわり、ささやかな救援活動をしましたが、自分たちが無事であったことのうしろめたさと無力感にさいなまれました。その後、不思議なめぐり合わせといいましょうか、新長田で2年前から劇場を運営することになりました。
現地の映像がテレビで流れた時、16年前の感覚が呼び覚まされました。
今、私たちに何ができるのか。あせる気持ちを抑えながら、4月16日に、関西を拠点に活動するコンテンポラリーダンスのアーティストを中心に「Dance Live KOBE #1」を開催しました。支援という言葉を使うことにもためらいがあり、Liveという言葉のなかに現在、共に生きていることと、亡くなった方への連帯というような意味を込めました。
47組のアーティストが8時間にわたり、それぞれの思いを踊りました。この時の全ての収益金はアートNPOエイドへ寄付をし、現地で活動するアーティストに使ってもらうことにしました。
5月末になって、ようやく仙台といわき市に行くことができました。仙台の10BOXへはアポイントもとらずお伺いしたのにも関わらず、八巻さんはじめスタッフの方に手厚く迎えていただき、アルクトの活動や神楽のお話をお聞きしました。
また、いわき市ではいわき芸術文化交流館アリオスにお伺いし、現状をお聞きしました。
神戸に帰ってから、東北の神楽に関するゼミに出て学習したり、DANCE BOXのスタッフが再び現地に行って学校関係者と話すなかで、いくつかのプログラムを企画しました。
7月にはニューヨークで活動するコレオグラファー余越保子を招聘し、いわき総合高校でのワークショップ。8月には神戸の高校生へのワークショップとショーイングを実施。この企画は16年前に生後まもなく被災した神戸の高校生と現在被災の只中にいるいわきの高校生が、どのような表現を生み出すのか、将来的には共同で舞台を創れるようにしたいと考えています。
10月9,10日はArtTheater dB 神戸でいわき総合高校演劇部が震災後創作した「Final Fantasy for XⅠ.Ⅲ.MMXⅠ」を上演いたします。
また、12月3日には岩手県普代村の鵜鳥神楽を新長田にお呼びしようと思います。巡行型の神楽のひとつで、本来巡行を受けいれていた神楽宿が壊滅的な被害を受け、その復興にはたいへんな年月がかかると思われます。
私たちは仮の神楽宿を本来の神楽宿が復興するまで、年に一度継続的に開きたいと思います。
私たちは神戸と東北を繋げながら、震災を通じてこれからの社会、コミュニティがどうあるべきか、問題を共有しながら、その解決に向けて舞台芸術ができることの可能性を探っていきたいと思っています。
岩手県:西和賀町文化創造館銀河ホール運営委員・岩手県民会館 指定管理者(株)アクト・ディヴァイス アドバイザー / 新田満 (9.27発)
『ロシア・ウラジオストクで「地震・津波」写真展』
震災発生からちょうど6ケ月が経過した9月11日、ロシアの極東ウラジオストクの地に立った。かつて勤めていた「銀河ホール」では演劇を中心にロシアと文化交流が盛んに行われ、特にウラジオストクとの相互交流は活発だ。私も5回目の訪問になる。
しかし今回の訪問はこれまでの文化交流とは異なり、ウラジオストク市民の支援活動に対する謝意と被災地が復興、復旧へ向けて踏み出している現状を写真により伝えたい思いが強かった。今夏、被災地の青少年をウラジオストクへ招き、地元の青少年との交流がメドベージェフ大統領夫人の提案により実現した。この話は外務省のロシア担当者から私に電話が入り協力要請されたが、各関係機関を通じ被災地と協議したものの時期尚早の感を受け断念した経緯があった。「我、力及ばず」の結果に意気消沈していたが、岩手県釜石市15人と野田村15人の中学生、大船渡市から高校生1人、宮城県石巻市の中学生2人が参加するという報道があった。外務省担当者の努力に敬意を表するとともに、ロシア側から引き続き受け入れる用意があることを示してくれたことは、日本とロシアが良き隣人であり、真の友人であることを確認できた。
「地震・津波」写真展は、大きな被害を受けた岩手県宮古市の広報担当職員と久慈市、大船渡市の友人が撮影したものを借用した。日本と同じく太平洋に接する環太平洋諸国の芸術家が集う「ウラジオストク・ビエンナーレ」のプログラムに組み込まれ開催された。
最も市民が集うショッピングセンターに展示された83枚の写真を見て「被災者にお見舞いとお悔やみの言葉をささげます。日本人の連帯と力強さで早く被害を乗り越えられるよう祈ります。」と多くの人から哀悼の声をかけられた。写真展は行政とショッピングセンターの考えが一致し、11月1日まで延長されることになった。想像をはるかに超えた大地震の実態を直視し、自然災害、地球温暖化など、地球規模で考えなければならないことをウラジオストク市民と「共に感じ、行動したい。」という願いが伝わったかは定かではない。
また、関係者との円卓会議において、青少年の文化交流を実現させるべき議論が交わされた。日本の悲劇はウラジオストク市民の心に刻まれ、今後の末永い文化交流へと発展することを期待したい。
東京都:日本演出者協会 フェニックスプロジェクト企画実行委員会 事務局長 / 菅野直子 (8.15発)
『劇場でつながる』
3.11から5ヶ月。フェニックス・プロジェクト=被災地の舞台芸術家を支援する事業が立ち上がって4ヶ月が経過しました。
このプロジェクトは、私たち舞台芸術家自身が、被災地の舞台芸術家を支援するもので、民間劇場である「笹塚ファクトリー」さんの会場提供を受けて6月から3ヶ月連続で「チャリティーライブ」を行うことからスタートしました。
このライブの柱は2つ。「作品を発表して支援金を集め被災地の舞台芸術家団体に送ること」、もう一つの大きな柱は「被災地の舞台芸術家を呼んで話を聞き、共に考える場をつくること」です。
『被災地のアーティスト・トーク』は「共に考える場」としての中心企画で、毎回大きな反響を呼んでいます。この企画はもともと現地の方へのヒアリング調査の中で「被災地の現状を伝える場がほしい」という要望にこたえた企画でもあります。
ほとんどのホールが流された岩手の沿岸部の様子、市内でも深刻な被害のあった仙台の様子、「放射線」に生活を左右される福島の緊迫した様子等々、6月当初、各地から報告されたこれらの内容に会場は静まりかえりました。「こんなことを舞台で表現していいのか、舞台芸術は本当に必要とされているのか」というアーティストとしての葛藤についての発言も多くありました。先日7月のトークでは、各県の方より共通して「子供たちの未来」という言葉がでました。
定点報告を軸としながら、被災地の経過に合わせて「3.11以降のクリエイションの可能性」「今、福島で考える」など、サブテーマを設定しポイントを絞りながらこの企画を発展させてきました。いわば、被災地の舞台芸術家たちに伴走する形でこのトークを継続している格好になります。
プロジェクト立ち上げ当初は「ユーストリーム配信」で被災地とそれ以外の地域をつないだ方がいいのではないかという意見や、「被災地から東京に人を呼びつけるなんて」という心配の声も出されました。
それでも、私たちが「劇場」で彼らの声を聞こうとこだわったのは、私たち自身が「劇場」という場所で世界とつながる舞台芸術家であるからです。
トークの後には毎回「交流会」を設けて、現地の方と会場に足を運んで下さった方が歓談できる時間を設けています。この交流会の中で、新たに人と人がつながり、また別の被災地支援の企画が始まる事例も生まれています。
6月、トークの終わりに出た「このことを風化させないで欲しい」という言葉が今も私の心に刺さっています。先日、初めて被災地に足を運びました。まるで何もなかったように更地になり緑の草に覆われているところ、まだガレキの撤去がすすまないところ、あまりに甚大で広範囲に渡る被災地は、その復旧状況も様々なものでした。
時は容赦なく経過するのかもしれない。街は新しく生まれ変わるのかもしれない。それでも、私たちは、多くの奪われた命と、失った多くの劇場のことをいつまでも忘れないように、「劇場」という場所で、被災地に心を寄せた活動を続けていきたい。
次回のチャリティーライブは8月18日〜21日。笹塚ファクトリーを会場とした連続ライブの最終回となります。ぜひ、多くの皆さんに足を運んで頂き被災地と「つながって」ほしい、そう願っています。ぜひご来場下さいませ。
新潟県:NPO法人越後妻有里山協働機構 まつだい「農舞台」マネージャー / 関口正洋 (7.3発)
『長野県北部地震とその後 越後妻有から』
3月12日未明、越後妻有を震度6強の地震がおそった。長野県北部地震である。相次ぐ余震と地すべりや雪崩などの2次被害もあり、地域全体では約20戸の家屋が全壊、現在も避難生活を強いられている。高齢者によって担われる棚田も被害をうけ、これを機に離農を考える人も少なくない。
「大地の芸術祭(越後妻有アートトリエンナーレ)」の常設作品や施設については全200作品のうち、全壊1件、半壊2件、一部損壊14件であった。オーストラリアハウス、最後の教室(ボルタンスキー)、夢の家(マリーナ・アブラモヴィッチ)など、拠点施設が被害をうけた。現在、作品を復旧し、被災集落とつながるために「大地の手伝い」を実施している。平日に事務局のスタッフが地域をまわって御用聞きを行い、週末にサポーターが入って作業をする。引っ越し、片づけ、農作業など、震災後3カ月たった現在でも地元からのリクエストが入る。震災前の姿に戻っているように見えても、傷跡は意外に深い。若いサポーターとの交流・協働は、地元のお年寄りに気持ちの張りをもたらすようだ。
東日本大震災で被災された方々とつながるための企画もスタートした。現在も約8000人の人々が新潟県内に避難しているが、被災者が都市や地元の子どもたちとともに遊び、学ぶ「越後妻有林間学校」や、アーティスト、各ジャンルの専門家、地元の匠など、芸術祭ネットワークをいかしたセミナー、ワークショップを開く。長野県北部地震ならびに東日本大震災の被災者を招待する。財源は被災地域支援のために立ち上げた「越後妻有アートネット災害復興基金」である。現在、400万円の支援金が寄せられている。
中越地震の2004年から7年間のうちに3回の大地震。越後妻有は、豪雪、地滑りとともに、自然災害とは常に隣り合わせである。恵みと猛威をひっくるめて自然に寄り添わなければ生きられない。「人間は自然に内包される」。1996年に文明の限界を直感し据えた越後妻有の基本理念である。大地の芸術祭2012では、アートを通してさまざまな世代・ジャンル・地域とつながりながら、農業、地域、社会、ライフスタイルなど、東日本大震災を含む今回の震災によって改めて明らかになった課題と向き合い、これからの自然観を提示したい。
東京都:NPO法人 魁文舎 代表・地域創造公共ホール現代ダンス活性化事業 コーディネーター / 花光潤子 (6.23発)
6 月 8 日〜10 日まで、2 回目となる宮古でのダンサー派遣の「身体のワークショップ」を実施してきました。
この活動は JCDN との協働によるもので、ブルームバーグ社のスポンサーから旅費・滞在費をいただき実現しました。
今回は、つどいの広場すくすくランド(未就学児とお母さんを対象)、金浜老人福祉センター避難所(高齢者と身障者)、藤原学童の家(小学生 1〜4 年)、津軽石中学校避難所(高齢者)、宮古市民総合体育館シーアリーナ避難所(一般、高齢者)の計 5 箇所。90 名弱が参加しました。
ダンサーは京都のダンスカンパニー、セレノグラフィカの隅地茉歩さんと阿比留修一さんのお二人。
コーデネーターは花光、アシスタント兼運転手に魁文舎の松本千鶴、記録にたきしまひろよしさんが同行しました。
また 10 日に実施したシーアリーナには、野田村に入っていた JCDN の神前沙織さん、ダンサーの佐藤美紀さんに合流してもらいアシストをお願いしました。 今回は刻々と避難所の様相が変化していく中、何度も所長さんと連絡を取り合って出かけましたが、それでも当日どうなっているか、行ってみなければわからない状況でした。求められるのは臨機応変、でも臨機応変が一番難しい。
それなりの経験知がなければできない技です。セレノのそれぞれの対象に合わせたプログラムは見事に皆の心を捕らえました。幼児向けにクマとおサルの着ぐるみを着てお相撲を取ってもらったり、金浜では避難所の高齢者とデイケアセンターの身体の不自由な方々、スタッフや所長さんなど全員が参加して、細胞を体内から活性化させるような動きでうっすら汗をかき、学童の家では元気一杯の小学生とダンスで遊び、夕食後に訪れた津軽石避難所ではゆったりと就寝できるリラクゼーションと、何でもござれのセレノの引き出しの多さと対応力に脱帽でした。最初は「俺には関係ねえ」と露骨に寝そべっていた強面のおっさんも、最後には一緒になって柔軟して、別れ際には名残惜しそうに隅地さんにさよならを言っていました。
シーアリーナでは、座って前屈するおばあちゃんをすっぽり後ろから抱きしめるようにアシストする阿比留さんの姿が印象的でした。息子のようでした。「もうじき仮設に移れるね、もう少しの辛抱だね。」
仮設に入居しても 2 年後には出なくてはならない。でも今、少しずつでも小さくても希望の灯があることは嬉しいことです。
岩手県:盛岡市中央公民館 / 坂田裕一(5.30発)
かつて、公民館が文化活動の中核施設だった頃がある。最近は、設備の整ったホール、いわゆる公立文化施設にその役割を譲っているが、現在でも、音楽・演劇・美術などの市民サークルの日常的な練習会場としての役割は大きい。その公民館が震災になると避難所として獅子奮迅の働きを見せる。本震災でも同様である。沿岸被災地の公民館は、避難所・物資支援センター・遺体安置所・配食センター・警察等の支援本部などとして活用され、職員は不休不眠で頑張っている。ホールもまた同様である。本来の活動である公演事業や創造事業に取り組む隙間はない。
それでは、津波の被害のなかった岩手県内陸部の公民館はどうだろうか。初期においては沿岸同様、多くの公民館は避難所運営を強いられたが、次第に避難所は集約され、4月になるとほとんどが通常業務に戻った。盛岡市中央公民館も同様である。
そんな中で、故舟越保武(盛岡市出身の日本を代表する彫刻家)の長女で、国際的な児童図書編集者として著名な末盛千枝子さん(すえもりブックス代表、平成22年から岩手県在住)から、絵本を被災地の子どもたちに届ける活動をしたいので協力して欲しい、という申し出があった。幸い、盛岡市中央公民館は、敷地面積は広く(公民館としては日本一の規模)、施設も大型で、8月以降リニューアル工事を行う予定の展示室が空いており、本の集積には都合がいい。女性団体や文化関係のNPO法人とも共同で、プロジェクトを立ち上げた。「3.11絵本プロジェクトいわて」(代表・末盛千枝子)である。中央公民館が事務局を担うことになった。
HPや新聞記事で、絵本プロジェクトの情報が広がると、本はものすごい勢いで集まりはじめた。多くとも5万冊程度と読んでいたが、本稿を書いている5月末で、本は20万冊を超えている。
被災地に届けられた本は4万冊。活動資金への支援も1千万円を超え、絵本を届ける軽自動車改造の絵本カーも購入できた。被災地からの反響もよく、現在では岩手ばかりではなく、青森県から宮城県まで活動範囲を広げている。
しかし、最も驚いたのは、絵本の開梱や仕分け・分類に集まるボランティアの多さと、熱心さである。
実数で150人のボランティアが集まった。4月中は週6回。5月中は週5回。6月中は週3回となるが、連日、午後1時〜3時の2時間が集中作業時間である。1日平均40人ほどが作業に参加する。毎日の人もいるし、週1回の人もいる。司書・保育士・図書ボランティア・読み聞かせグループ・小学校の元教師など絵本や児童図書に関わりのある方のほか、一般の生涯学習ボランティアや主婦も数多く参加した。被災地に行く事ばかりがボランティア活動ではない。絵本プロジェクトの活動によって、震災で塞ぎ込んでいた切ない気持を解放させることができたという参加者もいる。
この活動は、最低でも1年は継続される長い取り組みである。
公民館は場所貸しだけの施設ではない。各種講座を行うだけのカルチャーセンターでもない。人と人をつなぎ、地域づくりを行うところなのである。震災によって、公民館も否応なく、その存在の必要性を問われる。避難所運営を終わって待っているのは、単なる場所貸しやカルチャーセンター運営ではない。新たな地域づくりのための人づくりであり、コミュニティづくりである。
内陸部においても同様である。震災で公民館がどう変わることができるか、試されていると言っても言い過ぎではないだろう。
仙台市:せんだい演劇工房10-BOX / 八巻寿文(5.20発)
日本中から、そして世界から、温かく善意に満ちた励ましがたくさん届いています。与えていただいたこの機会に、この場をお借りして深く感謝の気持ちをお伝えできればと思わずにはおれません。本当にありがとうございます。
【0】からの再出発
5月1日に通常シフトで再開しました。10-BOXの名の由来ですが、この施設は上空から見下ろすと数字の【10】に見えるはずです。まだ【1】の部分である旧棟は貸出しの見通しが立っておらず、新棟の【0】の部分を先行して開館したので文字通り【0】からの再出発です。
しかも一部のスペースは物置を兼ねており、利用者に不便をかけ申し訳ないのですが「月と太陽の広場」と名づけ、打合せや休憩などいつでも誰にでも使っていただけるよう開放しています。「太陽と月の…」と言いたいところですが、夜でもやがて日は昇る、との思いから「月」が先になりました。
このささやかな広場にはテーブル、イス、空いた棚、ホワイトボード、簡易印刷機などとともに持ち寄りケータリングや美しい盤ゲームなどがあります。
この広場は「濁色(だくしょく)」と「プレイ(あそび)」をイメージしています。
例えば、絵の具の赤・黄・青は混ぜて作りだすことが出来ない「純色」(または「個色」)ですが、三つの純色をぜんぶ使って好きな割合で混ぜる【プレイ】をすると無限の種類の黒や茶色、つまり【濁色】が生まれます。
その色を白い紙にちょっと取ってゴシゴシ強くこすると、今度また純色を発見します。が、大きな違いは個々にある色ではなくグラデーションになっていること、純色が含まれて在る濁色もまた美しい色の種類であることです。
泥だらけの濁色の中、海水の塩害に負けずに咲く水仙や菜の花の、特に黄色が「笑顔」のようで心に沁みます。月と太陽の広場では「こどもとあゆむネットワーク」(HP参照)の作業をしている皆さんがお昼ご飯を食べています。今夜も仙台の演劇に関わるネットワーク事務局「ARCT(歩くと)」の会議が行われています(その模様は「ARCT」のHPで見られるようです)。誰かがお見舞いに来てくださった方と再会して記念写真を撮っています。みな思い思いに過ごしており、涙も、驚きも、感動も、絶望も、発見も、遊びや戦いや平和もみな健全にあり、広場に反響して青空や星空に消える笑い声は、まるで黄色い菜の花のようです。
思えば「ワークショップ」とは、もともと「場」を指す単語でした。
この【0】から始まる場はワークショップそのものであり、「試しながらじっくり演劇を創る空間」という開設当初からの10-BOXのイメージそのものかもしれません。
あの大きな地震では、10-BOXの棚が崩れなにもかも飛び散り足の踏み場も無くなりました。その後、津波が来ていた頃でしょうか、水鳥の見たこともない大編隊が上空をゆらゆらと飛ぶ姿を見ました。井伏鱒二の「屋根の上のサワン」で、忽然といなくなった飛べない雁に対し仲間に両側から支えられ渡りしたのかとイメージを抱くラストシーンを、なぜか「実感」していました。その後、間もなく大雪が45分だけ降り続き、雪は積もりました。ありとあらゆる手段で安否確認をするなか「無事」の二文字の現実の落差に、悲しみも喜びもまとわりついて二の句が継げず、どこまで何が広がっているのか理解できないまま、10-BOXと同居している知的障害者通所施設「のぞみ苑」の帰宅できない方々と25名ほどで過ごすことになりました。
停電による満天の星を見上げ、スタッフがポツリと「銀河鉄道の夜」と呟きました。その瞬間また、銀河鉄道にいると強く「実感」し、不思議な気持ちになりました。
いま思えば、鱒二の作品も、賢治の作品も、生きているのか死んでいるのかわからないという点で共通していたことに気づき、置かれていた状況と「ものがたり」のチカラとの不思議な関係を、あらためて強く実感しているところです。
ここ10-BOXのある宮城県仙台市若林区は仙台市内で最も津波の被害が広範囲にわたり、区の57%もが被害にあいました。津波は10-BOXまで及ばなかったものの、車で5分も走れば、二か月経った今も変わらない戦場のような情景が広がり、ふたたび言葉を失います。
5月1日に24時間利用を実質再開し、最初の公演は5月16日初日の「すんぷちょ」によるダンス公演「MIDORIGO」でした(その模様も「ARCT」のHPで配信しているようです)。灯体が明りを放ち、スピーカーから出したい音が流れ、身体は疲れ知らずの子どものように遊ぶ、そのこと自体が心を開放するよろこびだということを、あらためて味わいました。
そしていま、この10-BOXの駐車場から真っ直ぐ出ている道の先、10-BOXの敷地内から見える草野球場のある200メートル先の公園に仮設住宅が急ピッチで建設されています。6月から入居するそうです。
10-BOXがある地区は卸町団地という住居できない特別行政区域として整備され45年になります。人の住めない地域に初めての住人が突然あらわれるわけです。しかも10-BOXの最も近くに住む人たちです。
こどもはいるだろうか、時間をもてあます人もいるのだろうか、その人たちの仮設の生活は2年限定…付き合い方など、いろいろなことを考えています。
仙台市内の公共施設は部分的であっても再開しようと努力しています。しかし、物理的に大きくて柱のない「ホール」は損傷が激しく、特に中・大ホールは年内の公共ホール再開の見通しが暗い中で順次再開となる模様です。
しかし、10-BOXの事業では中・大ホールでの公演は行なっておらず、その意味では事業に影響はありません。
演劇当事者の活動の領域は「野生のフィールド」であり、行政がいたずらにかき回してはいけないと考えてきました。なぜなら、演劇は時として行政を批判できなければならないからです。そのフィールドは、一般的には愛好者の「遊び」という片面しかとらえられておらず、社会の役に立つ側面があるという認識は、まだ薄いといえます。そこで「野生のフィールド」と「社会」との際に、どちら側から見ても益がある柵のようなものが事業だと捉えてきました。劇場に招くというより、場を劇場化するという発想になってきており、地方では顔が見えない大きな地点から個々には至らない場合があると思われます。
一方、演劇の当事者(野生のフィールド)から届けるものも、あらためて問われていると感じます。
【東北の民俗芸能】
東北の歴史は、端的に言えば敗北の歴史です。
東北の独特な風土、宮沢賢治や寺山修司が匂う独特な世界観はどこからやってくるのか、東北の地に元からあった舞台芸術とは何か、それは見つかるのか、東北の歴史を再発見できれば誇りを持って積極的に文化を復興できると考えていたところ出会ったのが東北の「お神楽」でした。
ここで詳しく述べる余裕はありませんが、宮城と岩手にまたがる北上川流域は民俗芸能の金脈であり、宮城県下だけで160組の団体が存在しています。「法印神楽」「南部神楽」「浜神楽」などに分類される神楽組の特徴は「修験道」「夜」「野外」そして「仮設の舞台」が本式です。四角い舞台に四方柱は能舞台に似ていますが、むしろ田楽や申楽を思わせる自由で多様な舞台設定。笹竹や切り紙など舞台飾りは素朴にして荘厳。しかもそのスタイルは土地によって全て異なり、このように異なったまま存在していること自体が世界的に稀であり、日本のほぼ全土に分布するお神楽の、なかでも東北の風土に根差すお神楽の独特の雰囲気は、なんとしても後世に残したい無形の文化遺産です。
実は2008年に行った野外演劇祭「街が劇場になる日」で、東北のお神楽の全てに対応するフレキシブルでコンパクトな神楽舞台を、東北大学建築学部の有志とともに研究し設計・作成し、今でも毎年「仙台市歴史民俗資料館」の秋のお祭りで、原型に忠実な野外のお神楽を紹介し続けています。
祝祭の芸能であるお神楽は復興のシンボルとなるでしょう、しかし生活や風土を背景に信仰(宗教ではない)と結びついているため、もちろん興行ではありません。
いま、顔の見える神楽組とのデリケートな連絡を始めているところです。
全国の皆様、お神楽再開のその時こそ、どうか観光に訪れてください。地域によってはドブロク特区もあります。できるだけ地元の民宿などを取り、地場のおいしいご馳走とお神楽にお金を落としてください。
【〜ものがたりを届ける〜スタッフ☆ラボ】
演劇ではないと思いながら「ものがたりを伝える」という活動をしている人たちが実にたくさんいます、例えば「読み聞かせ」や「朗読奉仕」や「紙芝居」などですが、その活動の場に、電源ブレーカーを落とさず安全で安心で簡単な音響や照明や、手軽な背景などをキットとしてパッケージ化し現場に届ける。その楽しい準備をしていましたが、震災で実施は出来ませんでした。しかし、今こそ必要だと思っています。
【杜の都の演劇祭】
仙台演劇祭が行き着いた「杜の都の演劇祭」の着想は、そもそも3年前に仙台のメインストリートの公共文化施設が、なぜか秋冬に集中した改修もしくは大手ミュージカル公演で使えなかった悔しさに端を発しています。地元の飲食店で名作のリーディングを食事とともに味わっていただき、その収入はお店と事務局がシェアするというシステムに至り、三年目の昨年は開幕前にソールドアウトとなるほどの盛況になりました。これこそ演劇関係者が地元の経済復興に寄与するシンボルになる事業だと考えています。
岐阜県:可児市文化創造センター / 衛 紀生 (5.4発)
この度の大震災、津波などの災害を受けられた地域の皆さんには心よりお見舞い申し上げます。私自身は、16年前の阪神淡路大震災の折に神戸シアターワークスという団体を立ち上げて神戸で足掛け5年間活動した経験があります。被災者の皆さんのご苦難は如何ばかりか、お察しします。被災した各地の公共ホールも、甚大な被害を受けたことが報告されています。避難所となっているホールも多くあります。一日でも早く復旧することを祈念しています。芸術文化が必要とされる局面が必ず来ます。被災者はこころに大きな傷を負ったのですから、心の傷は、心に働きかける芸術文化でしか癒せないと確信します。
* * *
震災当日、私ども可児市文化創造センターalaでも大きな揺れを感じました。阪神淡路大震災の1月17日の午前5時46分、東京の自宅で寝込みを襲われて飛び起きたときのことを思い出しました。「何処かで大きな地震が起きている」と瞬時に思いました。「出来ることから始める」が災害時の基本です。東北地方の甚大な被災を知って、私たちはすぐに「きずなの募金箱」と、市民に書き込んでもらうメッセージボードを設置しました。
それから一週間、何かやらなければという思いの中で、新日本フィル、地元印刷会社、自身も被災した仙台在住のデザイナーなどに協力を依頼して『祈りのコンサート』のプロジェクトが動き始めました。震災が起きてから一週間、私は、被災者にとって一番大切な支援は、「決して忘れない」ということだと思い続けていました。1万円を募金するなら、500円を20回寄付する方が良いのだという考えが私にはあります。「忘れない」というメッセージを、愚直に送り続けることが、遠くにいる私たち、そして可児市民に「いま出来ること」ではないかと考えました。
阪神淡路大震災の時には、次第にマスコミ報道がなくなり、世間の関心が向かなくなり、ボランティアも潮が引くように少なくなって、神戸の仮設住宅の被災者は「孤立感」の中で二次被害の危機にさらされました。「取り残され感」に苛まれることになります。急性ストレス障害がPTSDの発症に進む危機となり、なかには朝から酒を飲む人さえ現われます。ですから、『祈りのコンサート』は、「決して忘れない」というメッセージを被災者に送る集いです。「可児市民は、忘れない」というサブタイトルを付けました。
6月21日からは、昨年私たちが上演したリーディング『シリーズ恋文』を東北の避難所に届けます。これは、その時の出演者の一人である山本陽子さんの申し出から動き始めたプロジェクトです。雇用も現地で起こすべき、という山本さんと私の合意があって、仙台の舞台監督工房の石井忍さんに現地リサーチと臨床心理士のコーディネイトをお願いしました。石井さんのリサーチで、現在のところ、宮城県は山元町、亘理町、名取市、七ヶ浜町、東松島町、石巻市、岩手県は大槌町、釜石市、大船渡市へのアウトリーチが視野に入っています。この話を聞いて、『シリーズ恋文』を一緒にやった音楽家の上田享さんも、電子ピアノを運んで『シリーズ恋文』のバック演奏をしてくれることになりました。
『シリーズ恋文』は、秋田県二ツ井町(現能代市)が全国公募した「恋文」を瀬戸口郁氏が構成した手紙を読むかたちのリーディングです。とても真心のこもった文面ばかりで、台本を読んでいるだけでこみあげてくるものがある「手紙」です。被災した人々は、涙が胸一杯に詰まっています。涙は心の冷却水です。いまは、ただただ泣けることが、こころのバランスを取り戻し、癒すことになります。山本陽子さんの申し出に、即座に快諾したのは、今の時期から1年半程度は、心のバランスが崩れやすい危うい時間となることを神戸の経験から知っていたからです。過覚醒障害や感情鈍麻や食欲不振などの急性のストレス障害は、被災した人なら誰もが罹患しています。ごくごく普通の心の反応です。ただ、これをそれ以上に進めないための「心のケア」が必要となるのがこの時期なのです。
公共ホールの職員は、興行師でもプロモーターでもありません。「公共」である意味が、震災でいま問われているのです。公演事業ができないのなら、まちに飛び出すべきだと私は思います。また、「何かやらねば」と思っている演劇人や音楽家が沢山いるのです。彼らの後方支援に徹しても良いのです。彼らも被災者です。経済的な支援があれば、いますぐにでも動き始めるはずです。彼らに思いのままに動いてもらうことこそが、地域文化の在り方をコペルニクス的に転換させる支援となるのではないでしょうか。芸術家に仕事を与えたルーズーベルトのニューディール政策に倣うことです。
可児市文化創造センターalaは、当初予算に補正をかけても、ともかくも出来ることから始めます。被災地の公共ホールも、態勢が整ったら、中止となった事業があるのですから、補正を組んでもまちに飛び出してください。期待します。ピッコロ劇場の故・山根淑子館長は、県教委の許諾を待つことなく、震災後ただちに劇団員を避難所に派遣しました。「出来ることから始める」とあわせて、前例や手続きに縛られることなく「出来ないことはない」という気持ちで、ともかくも動き始めてください。心から期待しています。
新潟県:魚沼市小出郷文化会館 / 榎本広樹 (4.25発)
今回の大災害はあまりにも被害が大きく、未曾有という言葉の感触を、私は初めて知りました。2004年に当地を襲った中越地震とは、人的被害だけでも3ケタ違います。甚大、という言葉も実感します。
ただ、中越地震の経験から、私は思うことがあります。
災害が発生して、一か月がたち、半年がたつと、被害は数字でしか語られなくなります。
死者〇人、全壊家屋〇棟、損害〇円・・・
しかし、本当はそうではないのですね。
中越地震から1年半が経った頃、新潟県内で最も読まれている新聞に、このような記事が載りました。
「中越地震で山の村の家が壊れ、長岡市内の息子夫妻の家に身を寄せていた老夫婦が、病気による体調不良と、山での生活再建ができないことを苦に心中した。」
私はこの記事を目にしたとき、ああ、天災の被害は、数字ではない、最後は個人が、「人間の悲惨」として身に受けなければならないのだ、と思いました。
山間地で発生した中越地震。被害が大きかった山あいの集落では、今も人口は地震前の約半分しか戻っていません。小さな谷の道筋に、人が住んでいる家と廃屋が交互に並んでいます。その一つ一つの家に、「人間の悲惨」がある。
3.11以来、起きたこと、いま起きていること、これから被災地全域で起きることは、幾万もの、そして実に様々な「人間の悲惨」であります。中越に住む人間は(そしてきっと阪神・淡路に住む人達も)、そのことを知っている、と思います。だから私たちは、家々が圧倒的な水の力で流される映像に、涙をこらえることができなかったのです。
ここ数週間、私はあたふたとしながら、市民から寄せられた救援物資の箱詰めをしておりました。その際、私は心の中でこのようなメッセージを込めました。
「共に生きましょう」
どのような悲惨なことがあっても、生き残った人間は、生きなければならない。
どのような事態に遭遇しても、人間は生きている限り、生き続けなければならない。
しかし、人は一人ではない。
だから、「共に生きましょう」
こんなこともありました。
震災からひと月も経たないある日のこと。某音楽事務所のマネージャーが電話をくれました。私が今、文化会館の仕事を横に置いて救援物資を送る仕事をしているのだと伝えると、彼女は「・・・うらやましいです」と言いました。
「昨日も音楽家と、『このような非常時には、私たちにできることは何もない』と話して、うなだれていたのです。」
と言うのです。そこで、私はこのように申し上げました。
どうかお知り合いの音楽家の皆様に、「今、私たちに できることは何もない」と悔しく思っている方々にお伝えください。
今はまだ、制服組の活躍の時です。自衛隊、消防、警察、医師、看護師等々・・・この先に、重機によるライフ・ライン復興の時期が来ます。これはブルーワーカーが活躍する季節です。1年もすれば、元通りには程遠いけれど、道路や電気、水道といったライフ・ラインはかなり復興すると思います。
でも、「心」は、そんなに簡単ではありません。
私の知り合いの新聞記者の言葉を借りれば、心の傷は、
「修正テープをペタッと貼って、まるでなかったことにするようなことはできない」
のです。
ずっと、痛み続ける。地震から一年半の後に、共に死ぬことを選んだあの老夫婦のように、「人間の悲惨」はこれからもずっと発生し続ける。
芸術が必要とされるのは、この時点においてです。
今、被災地の外に住んでいて、何もできることがないと感じるその心の痛みを大切に、その時を待ちましょう。制服組と、ブルー・ワーカーの皆様に心からの尊敬を送りつつ、その時を待ちましょう。
その時は、必ずやってきます。
中越地震から2年が過ぎたある夜、震源地の町で、サロン・コンサートが開かれました。1,500円のチケットを買ってきてくれたある女性の方は、
「今、このコンサートがあってよかった。震災直後はいろんな人が来てくれたけど、とても音楽どころじゃなかった。今年になって生活が落ち着いてきて、ようやく音楽を聴きたいと思うようになったんです。」
と話してくれました。
こういう日が、今は見えないかもしれないけれど、いつか、必ずやってくる。
そう信じて、今日を、乗り越えていきましょう。
きっとその時、芸術は秘められたその真の力を発揮して、人と人とを結んでくれると思います。
長い歴史の中で、これまでずっと、そうしてきたように。
宮城県仙南地域:仙南芸術文化センター(えずこホール)/水戸雅彦 (4.16発)
ホール運営に限らず、災害という非常事態において起こることは、最初に混乱、次に試行錯誤、それからゆっくり新しい回路が作られ、いろいろなものが動き始める。今、いちばん、勇気づけられ、心強く思っているのは、たくさんの方々が、さまざまな方面に、大量の支援や応援を送っていただいているということ。それはまるで、傷ついた体の一部に対して体中の抗体、免疫システムが全力で修復を試みているように思える。そして、日本が一つであること。世界が一つであるというイメージを彷彿とさせる。
さて、今、公共ホールは何をすべきかを考えたとき、まず、自らの劇場を建て直すことを基本にしながらも、沿岸部で壊滅的な打撃を受けた文化施設の復興のサポートをしていくこと。更に、行政区の壁を乗り越えて、ホールの事業を沿岸地域まで届け地元の施設と共催で開催していくことも積極的に展開すべきだろうと考えている。
えずこホールでは、4月12日に二兎社のご厚情により「シングルマザーズ」公演を無料で開催した。震災から1ヵ月と1日、まだ余震が度々起こる日々の中、満席のお客様となり避難所からも32人の方に来ていただいた。ホワイエには、震災後に発信されたpray for japanのメッセージを中心にさまざまなメッセージを展示、ホール外の広場には311本のキャンドルを灯し、鎮魂と明日への希望の灯火の思いを込めた。避難所から来た方の中には80歳で初めて演劇を観たという方もおり、感慨深い公演となった。